たたらの道と加計

 河内の神楽の成り立ちは、筒賀の大歳神社辺りであることは既に述べたとおりです。なぜ、大歳神社辺りで形づくられたのでしょうか。

 神楽の奉納が神社であることから、文化の中心が大歳神社であるように思われますが、実際は大歳神社から北東に位置する「加計」が運輸、文化、情報の集積地であったことを忘れてはなりません。加計が中心都市となったかは、たたら製鉄を抜きにして語ることはできません。

 たたら製鉄は、古代から大正時代の終わりごろまで中国山地を中心に、日本の鉄生産のほとんどを担っていました。1901年に官営八幡製鉄所が操業を創めたのち、大正の終わりごろに最後のたたらが廃業しその終焉を迎えました。山の中に鉄が出れば、人が集まり集落ができます。山の形が変わるほど木を伐り山を崩し、土は水でどんどん流して砂鉄を取ります。その後に石を積んで段々畑を作り、流れ出た土は河口を埋め立て地形を変える程です。そこに人が集まり、山の中に集落が点在し、それぞれは瀬戸内海や日本海に鉄を運ぶ「たたらの道」を作ります。

 加計には、鉄をはじめとし、あらゆる物資が集まります。加計までは陸路、加計から広島ほか各地へは陸路と河川(舟)によってロジスティクスが確立し、商品のサプライチェーン全体を管理する加計家という大企業も現れます。谷から谷へ橋を架ける、もやいを掛けるから加計という名称になったという説もあります。

 ヒトモノカネと情報が集まれば、文化や精神活動も活発となります。そのような中で、石見八調子神楽が中国山地のたたらの道を通って加計に集まり、色々な文化や精神活動に揉まれて十二神祇を形づくったのではないかというのは想像に難くありません。

 加計のほかには、備後や備中、あるいは中国山地で根付いた神楽もあり、そこそこの地で派生的に発展していきます。その中で中心となる阿羅平舞と将軍舞は、変わることなく引き継がれていきました。それほど陰陽五行説が民衆の日常生活や農事に深く根を下ろしていた証左と考えられます。

 今、加計を通ると往時の勢いは感じられませんが、加計で形づくられた舞が文書に残され大歳神社に奉納されたことにより、今我々が舞っている神楽がどこから来たのか知ることができます。歴史の重みを感じます。

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